今では全国的に有名になったカツオのたたき。有名になればなるほど話題になるのは、発祥やその時期である。
発祥については、長宗我部元親が四国平定の途次、安芸の浜でカツオの大漁にいき当たり、茅で焼いて食べた事に始まるとか、藩政時代に幡多でカツオの大漁があり、藁で半焼きにしたのが最初だとか、あるいは明治維新に西洋人が来高した折、肉の代用にカツオを半焼きにし、ステーキ代わりにしたのが最初だとか、いろいろな説がある。
『旅の友』(昭和十二年)や『土佐協会雑誌』(昭和八年十月号)、『土佐史談』(大正十四年)などには、たたきに関する記事が掲載されているが、それを総合すると、土佐のカツオのたたきは他国から移入したものではないか。また、たたきという料理は薩摩、紀州、伊豆、房総にもあり、とある。
そこで、昔から黒潮の恵みを受け、カツオと深くかかわってきた薩摩半島と紀伊半島の海岸部、伊豆半島、房総半島を調査することにした。
各地を調査して、魚を焼いて刺し身に作る習慣があるのは、紀伊半島の南部、土佐、薩摩半島の枕崎市である。その中で、塩やタレをふってたたくのは、土佐だけのようである。では、たたきの発祥はどこであろうか。
たたきの最も古い調理法と考えられる「塩だたき」という名称は、足摺半島でも東海岸に位置する窪津では聞かれないが、沖の島では採集できる。足摺岬には塩だたきが伝承されている。磯魚の焼き切りはしょうゆで食べていた、という地域が大半であるが、これは時代が下がってからのことであり、土佐清水市下川口では、酢みそか、あるいは湯ざまし(熱湯を冷ましたもの)でみそを溶き、これで食べていたという、焼き切りの最も古い食べ方と考えられる話を採集することができた。
以上のことから考えると、土佐清水市の西海岸が有力であるが、私が最も注目するのは、足摺半島の西海岸である。では、たたきのルーツは何であろうか。私は、磯魚の焼き切りがカツオのたたきに発展した、と考えている。
江戸時代は、漁師が自分で釣ったカツオであっても自由にならなかった。かつお節は土佐藩の重要な財源であり、幡は強制的に買い上げていたといわれている。明治になっても、漁師にとってカツオは高価に売れる商品であった。今日でもそうであるが、自分たちが日ごろ食べるのは商品価値の低いもので、それが磯魚である。
足摺半島の西海岸は、比較的水田に乏しい地区が多い。したがって藁は少なく、燃やすものも最も手近にある浜に打ち上げられた木切れや竹などであった。
磯魚の焼き切りはみそで食べている。その理由は、磯魚には特有の磯臭さがあり、このにおいを消すにはみそが最適で、今日でも磯魚の刺し身を酢みそで食べるのはそのためである。
特筆すべきは、湯ざましでみそを溶くことで、水では水っぽく、湯ざましにすると水っぽくならないというのが先人の知恵で、幡多群佐賀町の郷土料理である「カツオ茶漬け」も湯ざましを用いている。また、私たちが料理や製菓で湯ざましを用いるのも、同じ理由からである。
カツオは土佐人にとって特に思い入れが強い。かつては「季節を運ぶうまい魚」、「勝男武士」にもなぞらえて縁起のよい魚で、婚礼や還暦などの祝宴料理には、ことのほか喜ぶ風があった。カツオが自由に手に入るようになり、さらにハレの調味料であるしょうゆが使えるようになると、磯魚にとって代わり、おらんく自慢の料理、饗応料理(もてなし料理)へと変身したであろうことが想像できる。江戸時代初期から明治三十年ごろまでの、全国各地の料理を掲載したという『日本料理法大全』に次のようにある。
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